ジョージアと言ってもアメリカ合衆国南部の州ではない。ロシアの南西、トルコと黒海の東に位置するコーカサス三国の一つで、日本では2014年まで「グルジア共和国」と呼ばれていた旧ソビエト連邦の構成国である。
実はこの「コーカサス三国」というのも微妙な表現で、ひと括りにされているジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンは、それぞれ体制も宗教も政治の方向性も異なる独立国家。各国の住民たちにも隣国との一体感などまるでなく、むしろ、政治や経済の分野で摩擦どころか敵対している状況さえある。つまり「コーカサス三国」とはかつてのモスクワや、モスクワを基点にした日本の外務省の視点による、ソ連邦のマイナー構成国のある地域のざっくりした呼称に過ぎないのだ。ジョージアはその中でも現在、最もEU寄り、つまり脱ロシアの立場で経済発展を続けている。国名の外国語表記をロシア語読みの「グルジア」から英語読みの「ジョージア」に変更した理由もそこにある(ちなみに、グルジア語での正式国名は「サカルトヴェロ」という)。
首都トビリシに着くと、乾燥した空気がまるで日本のさわやかな高原のそれのように快適だ。青空はどこまでも高い。気候同様、建造物も(旧ソ連構成国特有の)ミニマルで乾いたデザインのものが多いが、何よりもほぼすべての通りに背の高い樹木が大きく枝葉を広げ、家々の庭にもブドウなどの木々が葉と実を付けているのが印象的だ。人々が自然と共に暮らす豊かな都市、という風情か。それは巨大な砂漠のオアシスのようにも見えるし、西ヨーロッパの気の利いた地方の街、あるいは中東のリゾート都市のようでもある。
トビリシ市街を歩くと、この土地が「食の宝庫」であることが分かる。市場やスーパーマーケットや露店では、さまざまな野菜・肉・乳製品などが豊富に売られており、驚くほど赤く甘いトマトや味の濃いスイカなどの地元産の野菜やフルーツだけでなく、アラブの影響が色濃いと思われる独自のコーヒー文化なども実に魅力的だ。もちろんレストランやカフェではローカルフード以外にも世界中の料理が楽しめる。
実際、この土地はシルクロードの西の端の交易都市の一つで、東は遥か中国と結ばれ、西はトルコと黒海を介してヨーロッパに続き、南はイラクなどのペルシャ・アラブ地域につながり、北はロシア(チェチェン共和国ほか)と接している。ここははるか昔から文化のクロスロードとしてその輝きを絶やさなかった土地で、数千年あるいは数万年の人の移動の歴史と共に、ここではさまざまな食文化が往来し、混じり合い、進化してきたのだ。
そんなトビリシのローカルフードでは、ぜひ「キンカリ」を試したい。外見はほぼ中華料理の「小籠包(しょうろんぽう)」なのだが、中にラム肉や地元産のハーブなどを使った餡(具)が入るバージョンもある、代表的なジョージア料理。長い歴史の中で中華の食文化がシルクロード経由で伝えらたものであろうことは想像に難くない。食が時間と空間を超越した存在であることを実感できる。
さらにワインもここジョージアが発祥の地とされている。トビリシの北東、大コーカサス山脈の麓のカヘティア地方の大平原には見渡す限りのぶどう畑が広がり、ワイナリーが点在している。ジョージア人がジョージア産ワインの歴史に圧倒的な誇りと自信を持っているのが感慨深い。そのバリエーションと品質ももちろん、「世界最古」の名に恥じないものであることは言うまでもない。
トビリシ市内を流れるムトゥクヴァリ川(クラ川)は、古来からヨーロッパとアジアを隔てる境界とされてきた。さまざまな理由で、ヨーロッパから東へ、そしてアジアから西へ向かった多様な人たちが、このムトゥクヴァリ川を一つの重要な通過点とした。この川を越えることで、ある者は安堵を、ある者はさらなる不安を、またある者は旅人としての武者震いを全身で感じたに違いない。今も川のほとりに建つメヒテ教会は5世紀に建立されたもの。かつては旅人の「駆け込み寺」だった時代も長かったという。ジョージアを通過する旅人を、つまり人類の移動の歴史を、じっと見守り続けてきた存在だ。きっと今も、そしてこれからもそうあり続けるのだろう。
ジョージア国内には鉄道網や航空路が発達しておらず、メインの移動手段は「マルシュルートカ」という乗り合いの小型のバン、あるいは乗り合いタクシーとなる。これで前出のカヘティア地方や、北部のカズベキ地方、黒海に面したバツミ、さらには隣国のアゼルバイジャンのバクーやアルメニアのエレバンに向かうことができる。
マルシュルートカの乗りごごちは快適とは言い難く、ドライバーや同乗者の愛想はさほど良くないかもしれない。しかし誰もが時折、どこか人の良さがにじみ出る態度や表情を見せる。より正確には、人の良さというよりも「旅人(=異邦人)を拒まない姿勢」と言えるかもしれない。それはシルクロードの西端のクロスロードというこの国の位置に関係している。何千年にわたって数え切れない旅人が到達し、滞在し、通過したこの地では、そこに住む者が見知らぬ旅人と接することは日常であった。あらゆる異邦人を迎え、もてなし、商いをし、ある時は徒党を組み、またある時は追い払うことは、ある意味ここで生きることのすべてであり、ジョージアの住人たちはその術を自らの数千年にわたる経験からDNAレベルで会得しているのだという。
その証のようにトビリシの丘に建つマリアの像は、片手にワインの盃を、もう一つの手に剣を持っている。それが意味するところは、「我々はここを訪れる者をすべて迎え入れる。友であれば盃を酌み交わし、敵であれば戦う」。見知らぬ旅人との付き合いかたの経験値が、計測不能なほどの次元にまで高められているのである。
ジョージアでマルシュルートカが進む道、あるいは自らの足で歩く大地は多くは乾いた土地で、時に険しい。しかしそこは自分のはるか祖先がまだ移動民だったころ、命を賭して通過した場所かもしれない。未知のはずであったジョージアの風景にいつの間にか既視感を覚えるのは、旅人としての創造力が働いているだけでなく、自分のDNAに刻まれた遠い記憶が呼び起こされているからかもしれない。