ウドンタニはタイ東北の農業地帯イサーン地方にある商業都市。バンコクからは約550キロ離れている。旅人の目にも、そこには大都市の喧騒がないだけでなく、タイ中央部や南部とは異なる伝統や建築様式、そして穏やかな人々の暮らしがあることがなんとなく分かる。それもそのはず、この地方の言語や文化そのものが、わずか約70キロ先のメコン川の向こうの隣国・ラオスのそれと、ルーツを同じにするという。
そんなウドンタニ中心部から約43km南東の農地と原野に囲まれた土地に、正式名称「ノーンハーン」、通称「タレーブアデーン」として知られる湖がある。その名の意味は「紅い睡蓮(ハス)の海」。文字どおり、毎年12月から2月上旬の早朝、この総面積約36k㎡の広大な湖の水面のほとんどが紅いハスの花で埋め尽くされ、一帯が紅く染まるのだ。シーズンのピークは1月半ばの「タレーブアデーンの祭り」の頃。地元を上げての盛大なイベントで、タイ東北部ならではの民謡音楽「ポーンラーン」の演奏や、ムエタイやセパクタクローのスポーツの試合などで賑わう。
そんなウドンタニを私が訪れたのは2月も終わりに近い頃。1月〜2月上旬とされるハスの満開時期は過ぎていたが、それでも「まだたくさん咲いている」と言うホテルスタッフやトゥクトゥク・ドライバーらの地元情報を信じて、未明に湖に出かけることにした。
街の中心部から湖までの往復は、タクシーだと1000〜1500バーツ、トゥクトゥクだと800バーツ程。どうせのどかな田舎道を進むだけだ。トゥクトゥクでもいいじゃないか、と思うが、タイといえども東北地方の2月、それも未明の時間帯はかなり冷え込む。向かい風に対してほぼ全身がむき出しになるトゥクトゥクは凍えるかもしれないと、本能的に危険を察知してタクシーをチャーターした(予想は正しく、結果的にタクシーは正しい選択だった)。夜明け前の周囲がまだ暗い中、タクシーは整備が行き届いた道路をひた走り、集落を抜け、さらに農道を進むこと約40分。湖のほとりに到着した。シーズン中だけ運航しているという有料ボートの乗り場が、蛍光灯の弱々し光に照らされている。ボートのチケット売り場のスタッフはフリースを着込んでいる。周囲には土産物屋や屋台が軒を並べ、まだ朝の5時台だというのに営業しているところもある。そして、観光客が続々と、自家用車やタクシーで到着している。
ボート乗り場から湖面を臨むと、湖面にハスの花が咲いている様子はあまり見えない。少なくとも「一面に咲き乱れている」雰囲気はない。やはり時期を外したのか。
規定の1.5時間のコースを巡るボートは、小型(2-3人乗り)が1人150バーツ~。大型サイズ(6-8人乗り、1人100バーツ~)や、5名以上用でコースが自由なチャーター(2,000バーツ~)もある。さっそく小型ボートに乗り込むと、船頭が湖へと漕ぎ出し、エンジンをスタートさせる。気がつくと、あたりには夜明け前の弱々しい明るさが広がっている。
ボートはエンジン音を轟かせ、湖面をずんずんと進む。確かにハスの葉は広がっており、ところどころに花も咲いているが、総じてあまり元気がない。寡黙な船頭が時折ボートを止めてくれるが、そこが見所スポットなのかどうかはよく分からない。別の地点でもまた止まるが、やはりハスの花はあまりない。どうしたものかと思っていると、ハスの葉の向こうに朝日が昇ってきた。湖面とハスの花が徐々に柔らかな朝の光に包まれる。美しい。なんのことはない、船頭はやはりベストなロケーションとタイミングを熟知していたのだ。
日の出の神々しさには感動するものの、ううむ、やはりハスの花があまりない。船頭はさらに船を進め、広大な湖を巡る。時折、花が咲いているエリアに遭遇するが、「一面」と呼ぶほどではない。しかし野鳥が多く、ハスの葉の上で羽根を休めているものもいる。湖は思ったよりもはるかに雄大で自然豊かだ。その真っ只中にこうして佇むのは、非日常を体感するには最高の環境である。
ここでも時折ボートは止まり。私は水面で風と波にゆれるハスの花をただ見ている。場所によってはかなりの数の花がまとまって咲いているエリアもある。これで十分だろうか。と言うよりも、不思議にだんだん花の数や密度などあまり重要でないような気がしてくる。先ほどから感じている非日常感がさらに昇華して、だんだんとまるで気が遠くなるような、瞑想をしているような気分にすらなってくるのだ。
そういえばハスは、たしか釈迦が悟りを開いた時に座っていたのでなかったか(違っていたらすみません)。仏教でハスの葉や花に特別な意味があるとされているのは、目に見えない水面下にしっかりとした根が張られ、また泥水からその美しさと強さが立ち上がるからだとも、どこかで読んだ記憶がある(こちらも違っていたらすみません)。もしかしたら仏教国タイの多くの人々にとっては、このハスの葉と花のある光景を見て、その中にいること自体が、特別な意味を持つことなのかもしれない。確かに周囲を見回しても、私を含む外国人はひたすら写真を撮っている人が多いが、タイ国内から訪れているであろう観光客の中には、どこか遠い目をして瞑想をしているようにも見える人がいる。
ハスの花は午前11時頃にはその日の開花を終えるそうだ。その儚さもまた、花の美しさや清廉さの意味を際立たせているのだろう。こうしてタレーブアデーンが特別な場所、と言う意味が少しわかる気がしてくる頃には、ボートツアーも終わりに近づく。ここは、言葉にならないかたちで、多くのものが心に残る不思議な場所なのである。
ウドンタニ周辺には、世界遺産に登録されている「バーンチェン」など、先史時代からの歴史を刻む遺跡などが数多くある。冒頭に書いたように、メコン川を挟んだ隣国ラオスへの陸路での移動も比較的簡単にできる。サンスクリット語で「北の町」を意味する街・ウドンタニは、まるで時間と空間を飛び越えるかのように、さまざまなものや場所につながっている土地なのである。バンコクのそれとは違う、タイの歴史と文化を体験するには最適の場所の一つに違いない。