同じ東福寺でも、訪れる人がぐっと少ない本坊庭園、「八相の庭」。ゆったりと鑑賞できます。日本庭園史の研究家、重森三玲が1939年に完成させました。
庭は4つなのに八相?と思いますが、命名のいわれは、「八相成道(釈迦の生涯の8つの重要な出来事)」から。四庭に配した、「蓬莱」「方丈」「北斗七星」などの8つの情景を表しています。
当時の創建年代にふさわしく、鎌倉時代庭園の質実剛健な作風を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅僧庭園の白眉として、名高いそうです。

7914

「南庭」。南正面に設けられた表門は、昭憲皇太后の寄進と言われています。

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「西庭」。さつきの刈込と砂地を大きな市松模様に図案化し、中国の田制「井田」にちなんで「井田市松」と呼ぶ。北庭への途中には「通天台」という舞台があり、眼下に渓谷「洗玉澗」が望める。

「北庭」は、ウマスギゴケの緑と敷石で色鮮やかな市松模様。敷石は、元は恩賜門に使われていた石材です。
重森三玲は作庭の際に、「廃材を利用のこと」との条件を設けられていたそうです。その難問を見事に解消しつつ、友人の彫刻家、イサム・ノグチに「モンドリアンふうの新しい角度の庭」と言わしめたオリエンタル・モダンのデザインは、重森三玲の力量を余すところなく表しています。
当時は、白砂が敷石との間にあったそうですが、時と共につやつやのコケがどんどん育ち、今の姿に。捨てる神あれば拾う神あり。いや、こちらはお寺でしたね。御仏のご加護で育ったみずみずしいお庭でした。

IMG_7911

「北庭」は、西庭から続くパターンとして描かれているそうです。市松が小さくなり、そのまま東庭に続いていくように配置されています。

最後の「東庭」には、砂地に丸く模様が描かれている「雲文様地割」に、円柱の石を配置し、北斗七星を表しています。この石も、もちろん東司の柱石の余りを利用したもの。

桜の樹を排して、紅葉の名所となった東福寺。
反対に「八相の庭」では、廃材を活かして新たな名庭を生み出しています。
この不思議なご縁の紅と緑、機会がありましたら、ぜひお尋ねください。

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後方の生け垣は天の川を表して、小宇宙を作りだしているそうです。

同じ東福寺でも、訪れる人がぐっと少ない本坊庭園、「八相の庭」。ゆったりと鑑賞できます。日本庭園史の研究家、重森三玲が1939年に完成させました。
庭は4つなのに八相?と思いますが、命名のいわれは、「八相成道(釈迦の生涯の8つの重要な出来事)」から。四庭に配した、「蓬莱」「方丈」「北斗七星」などの8つの情景を表しています。
当時の創建年代にふさわしく、鎌倉時代庭園の質実剛健な作風を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅僧庭園の白眉として、名高いそうです。

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「南庭」。南正面に設けられた表門は、昭憲皇太后の寄進と言われています。

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「西庭」。さつきの刈込と砂地を大きな市松模様に図案化し、中国の田制「井田」にちなんで「井田市松」と呼ぶ。北庭への途中には「通天台」という舞台があり、眼下に渓谷「洗玉澗」が望める。

「北庭」は、ウマスギゴケの緑と敷石で色鮮やかな市松模様。敷石は、元は恩賜門に使われていた石材です。
重森三玲は作庭の際に、「廃材を利用のこと」との条件を設けられていたそうです。その難問を見事に解消しつつ、友人の彫刻家、イサム・ノグチに「モンドリアンふうの新しい角度の庭」と言わしめたオリエンタル・モダンのデザインは、重森三玲の力量を余すところなく表しています。
当時は、白砂が敷石との間にあったそうですが、時と共につやつやのコケがどんどん育ち、今の姿に。捨てる神あれば拾う神あり。いや、こちらはお寺でしたね。御仏のご加護で育ったみずみずしいお庭でした。

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「北庭」は、西庭から続くパターンとして描かれているそうです。市松が小さくなり、そのまま東庭に続いていくように配置されています。

最後の「東庭」には、砂地に丸く模様が描かれている「雲文様地割」に、円柱の石を配置し、北斗七星を表しています。この石も、もちろん東司の柱石の余りを利用したもの。

桜の樹を排して、紅葉の名所となった東福寺。
反対に「八相の庭」では、廃材を活かして新たな名庭を生み出しています。
この不思議なご縁の紅と緑、機会がありましたら、ぜひお尋ねください。

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後方の生け垣は天の川を表して、小宇宙を作りだしているそうです。