風薫る5月。その2日〜4日に毎年開催される「垂井曳軕祭り」は、岐阜県不破郡垂井町にある八重垣神社の例祭です。三輌の豪華な曳軕(ひきやま)は漆塗りに蒔絵、彫刻金具を施し、県重要有形民俗文化財に指定されているほど、豪華絢爛です。
その曳軕の舞台で、安永年間(1772~1780)に始まった子供歌舞伎狂言が披露されます。この愛らしい姿を一目見ようと、訪れる観光客は3日間で1万人にも上るそうです。(画像ご提供:垂井町観光協会)

1垂井まつり

豪華な衣装は、金糸銀糸の縫い取りも。艶やかな本格派(男子です!)

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風薫る5月。その2日〜4日に毎年開催される「垂井曳軕祭り」は、岐阜県不破郡垂井町にある八重垣神社の例祭です。三輌の豪華な曳軕(ひきやま)は漆塗りに蒔絵、彫刻金具を施し、県重要有形民俗文化財に指定されているほど、豪華絢爛です。
その曳軕の舞台で、安永年間(1772~1780)に始まった子供歌舞伎狂言が披露されます。この愛らしい姿を一目見ようと、訪れる観光客は3日間で1万人にも上るそうです。(画像ご提供:垂井町観光協会)

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豪華な衣装は、金糸銀糸の縫い取りも。艶やかな本格派(男子です!)

八重垣神社の起源は、南北朝時代の文和元年(1352年)、南朝が京を軍事的に制圧して足利義詮を追い、正平一統を破綻せしめたことにさかのぼります。難を逃れて京から脱出した後光厳天皇は、文和2年(1353年)、土岐頼康らに守られて垂井に到着しました。この仮御所に京都の祇園社の御霊代を分祀し、牛頭天王社として創建したもの。後光厳天皇が京都に戻った後は、この地域の氏神となりました。その後、天文元年(1532年)、現在の場所へ移ります。また、明治元年(1868年)、神仏分離令のさい「八重垣神社」と改称しました。「八重垣」は、御神詠の「夜幣賀伎」に由来したものです。

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3輌そろうと、壮観です!

八重垣神社の例祭となった「垂井曳軕祭り」の起源は古く、南北朝時代の文和2年(1353年)に始まったといわれています。都から逃れてきた後光厳天皇を慰めようと、村人が花車3輌を造って曳き回したことから。
その後、江戸時代の安政年間に山車に舞台を造り、豊年祭として曳きだしたそうです。以後、舞台上で子供による能狂言を演じるようになったとされ、現在の子供歌舞伎へと続いています。

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オールキャストそろい踏み!

例祭は、現在毎年5月2日〜4日に「垂井曳軕祭り」として開催されています。
「曳軕」と呼ばれる山車は、いずれも漆塗りの蒔絵、名工の彫刻・飾金具など、美術工芸の粋を集めた絢爛豪華な装飾が有名です。3輌とも岐阜県の重要有形民俗文化財に指定されています。
3輌はそれぞれ、《攀鱗閣》(文化5年作)が西町、《紫雲閣》(安永年間以前の作)は中町、《鳳凰山》(寛政10年作)は東町に所属しています。
垂井曳軕祭り3日間のうち、中日である5月3日には、「本楽」として子供歌舞伎が上演されます。
今年は、三輌の曳軕のうち中町の紫雲閣が一番軕で、幼稚園から小学生の7人による歌舞伎「一谷嫩(ふたば)軍記、熊谷陣屋」が演じられました。また、二番軕は、東町の鳳凰山、3番軕は西町の攀鱗閣(はんりんかく)で、それぞれ「新版歌祭文野崎村」、「双蝶々曲輪日記、八幡里引窓の場」を演じました。

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圧巻の“練込”。活きて活躍する重要有形民俗文化財!

演じているのは、下は5歳から上は10歳までの子供達。堂々たる演技には、さぞや長期の特訓が⁈ と思いきや、「稽古初めは4月17日でした。正味10日くらいで、集中して覚えてしまいますよ。子供って、スゴイですね!」と垂井町観光協会の喜多村さん。

毎年見慣れているからでしょうか? と伺うと、演目は毎年変わるとのこと。観光客も、演目がどんどん変わるのでそれを楽しみに毎年来る常連さんも多いとのことです。

女方の豪華な衣装は、女子の憧れでは? と思ったら、本軕は、ナント“女人禁制”。出演しているのは、全員男の子です。
他にも、神事であることから、「練込中横断禁止、二階よりの観覧厳禁、文化財の保護、投げ菓子類の禁止」などの協力を求める呼びかけがチラシに明記されていました。由緒正しい所以です。
こうして5月4日の後宴、20時20分の千秋楽で祭りはお開きとなります。

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風情溢れるライトアップ