金門島1

台湾の金門県は大金門島・小金門島など12の島からなる離島県。台湾本島からは南シナ海・台湾海峡を挟んで約200キロ離れているが、中国本土の厦門(アモイ)までの距離は10キロにも満たない。ここは、大陸中国の喉元に突き刺さるように位置する「もう一つの中国」なのだ。

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金門島1

台湾の金門県は大金門島・小金門島など12の島からなる離島県。台湾本島からは南シナ海・台湾海峡を挟んで約200キロ離れているが、中国本土の厦門(アモイ)までの距離は10キロにも満たない。ここは、大陸中国の喉元に突き刺さるように位置する「もう一つの中国」なのだ。

大金門島の金門空港(尚義機場)へは台中空港からUNI AIR(立栄航空)を利用することに。台中空港のドメスティックターミナルは発着便数が多い割には搭乗待合室が1つ、バスゲートが2つしかない。エアラインの空港スタッフがそこで終日続く出発便の搭乗業務を淡々と続けている様子は、効率優先のルーティンワーク。旅客も平静そのもので、まるで日常に溶け込むバスターミナルのような光景だ。台湾では飛行機移動が広く一般的であることが分かる。

長らく台湾では空港は軍事施設とみなされていて写真撮影は厳禁だった。しかしここでは、そもそもターミナルビルは全面ガラス張りで、駐機中の航空機やエプロンを撮影してもまったく咎められることはない。保安員がコーヒーカップ片手に笑顔で近づいてきて「天気いいねぇ、撮影日和だねぇ」などと声をかけてくる程ののどかさである。

金門島2

UNI AIRのATR72-600型機は70人乗り。日本のエアラインのように機体の内外が隅々まで清掃されていることが印象的だ。早朝便にもかかわらずほぼ満席で、利用者は概ね台湾と中国本土の旅行者だと思われる。55分のフライトはまるで日本の国内線のようで、事務的にソフトドリンクのサービスが乗客全員にさっと行き渡ると、もう金門空港に到着だ。

金門空港は海に面している。エプロンには台湾の国内路線を飛ぶFAT(遠東航空)やマンダリン(華信航空)などの小型機が駐機している。背後の南シナ海は穏やかだ。ターミナルには搭乗橋はなく、徒歩でターミナルに入る。利用者施設は1階のみだが、ターミナルビルは堂々としたガラス張りで開放的。コンビニエンスストア、レンタカーのカウンター、土産物屋も数店揃い、ここがある程度の規模の観光地であることが分かる。ビル中央にある「小三通」(後述)の専用カウンター、そして軍関係者のオフィスが意外に大きい。気が付くとターミナル内には観光客や学生に混じって、迷彩服を着た台湾軍の軍人が多く歩いている。

金門島3

金門島はその地理的条件からいつの時代にも大陸と台湾島との間の移動の主要動線となり、長い間、両者のにらみあいの最前線だった。17世紀の明朝から清朝への動乱期には鄭成功がこの島を通って明朝擁護の政治・軍司拠点を台湾に築き、1937年〜1945年の国共内戦時には大陸中国(現在の中華人民共和国)と台湾(中華民国)の交戦場所になった。中華人民共和国成立後の1958年には、金門島の戦略的制圧を目指す共産軍による大規模砲撃「金門砲戦」が勃発。砲戦開始後2時間で約4万発、計5万7千発の砲弾が島に打ち込まれ、その地形が変わったという。島に残された砲弾の残骸の鉄から造られた「包丁」が、その後の金門島の特産品となったというからその凄まじさが想像できる。

そんな金門島が変わったのが、1992年の戒厳令の解除(台湾本島は1987年)と2001年の「小三通」政策の実施だ。「小三通」(英語では「Mini Three Links」)とは、この島を拠点に、大陸と台湾の間でそれまで禁じられていた「通商」「交通」「通信」の3分野を開放する政策。当初は台湾と中国本土に籍を持つ人のみが対象だったが、現在までにほぼすべての人がその恩恵を受けられるようになった。共産中国と自由台湾の対立の最前線で戦略的軍事拠点だった島が、いきなり人とモノと情報の往来の主要拠点となったわけだ。そう言いえば、金門空港への到着直前、機窓から見えた海岸線には砲台やトーチカの跡と思われる施設が数多く残っていた。それらは10数年前まで、たった10キロ先の「敵」に向けた現役の軍事施設だったのだ。

金門島4