ユジノサハリンスク7

メーンストリートの「コムニスチーチェスキー通り」を東に移動し「郷土博物館」に向かう。ユジノサハリンスクの中でも最も「日本統治時代」を感じられる建物だ。日本の城郭を模した屋根のラインに特徴のある重厚な日本建築は、当時「樺太庁博物館」だった建物だ。外観は日本らしい設計なのだが現在の日本では見ることのないスタイルで、タイムスリップ感と希少感がある。正門の扉には「菊の御紋(菊花紋章)」が彫られているほか、内部の構造や木を多用したインテリアからも当時の最高レベルの日本建築のデザインと技術を垣間見ることができる。博物館は、サハリンの古代から現在までの歴史を、史料や写真・マルチメディアコンテツの展示を通して学ぶことができる内容で、ソ連時代には封印されていたという日本統治時代の品々もケースの中に並ぶ。当時の北緯50度ラインに設置された日本とロシアの「国境」の標石をはじめ、「豊原」の街や開拓者の暮らしを伝える写真や実際の日用品などの数々がとても印象的だ。まるで時が止まったかのような風合いの展示物を見つめ、先人たちの開拓地での活躍と苦労を偲ぶと同時に、その後の運命を慮る。ソ連崩壊後のサハリン州がこの展示を公開することを決め、そのスペースがかなり広く取られていることからは、日本とサハリンの見えないつながり、そしてサハリン人の日本人に対する特別な感情の一部が伝わってくるようにも感じる。

ユジノサハリンスク8

ユジノサハリンスク9

郷土博物館の入館料は70ルーブル(約210円)。カメラ撮影には別途100ルーブル(約300円)、ビデオ撮影には150ルーブル(約450円)が必要だ。館内で撮影していると、時折、学芸員兼警備員と思われるおばさんが「撮影は有料だよ。代金、払ってる?」とちょっと厳しい表情でロシア語で聞いてくる。「入り口で払ったよ」とレシートを見せると、「あら、なら大丈夫だよ」と笑顔になる。このやりとりが延々と繰り返されるところがなんとも面倒でもあり、どこか楽しくもある。ロシア人はこういう「手続き」みたいなものが好きなのだろうか。

ユジノサハリンスク市内にはこの郷土博物館のほか、旧拓殖銀行豊原支店がサハリン州美術館として、旧豊原市立病院が軍病院として、旧豊原市公園がガガーリン公園として、それぞれほぼ当時のまま現在も使用されている。ホムトヴォ空港もまた、そのルーツは日本統治時代の「大沢飛行場」に遡るが、現在、その痕跡はほぼない。

一般的に日本で「ロシア」と聞いて、無条件にポジティブなイメージだけを持つ人は多くないかもしれない。ロシアが生んだ偉大な芸術や文化、そして大自然などが賞賛に値するのは当然だが、第二次世界大戦末期と戦後の日本とソ連関係や、長く続いた政治・経済の腐敗と混乱などから、どうにも正面切って「友人」だと言い切れない、というのが多くの人の率直な気分なのではないだろうか。しかし、その背景には長らく互いに相手のことを知らず、また知る機会がなかったことも理由としてあるはずだ。今回、互いの距離が、稚内からサハリン島までわずか42キロ、ジェット機でも1時間ちょっとの距離であることを体験し、ロシアが日本の「隣国」であることを改めて実感した。

国レベルでは北方領土問題など、日本とロシアの間で解決すべき問題は多くある。そしてその解決へのプロセスには時間がかかるかもしれない。それでも、ロシアが日本の「隣国」で、サハリンの人たちが「隣人」である事実は変わらない。むしろ日本の多くの人々がそんな隣人意識を持っていないことが課題の一つかもしれない。活動のエリアは経済交流でも観光市場の開発でも、留学生の交換でも構わないが、「サハリンはその半分がかつて日本が統治した南樺太」という認識をさらに広げ、新しい日本の隣国として位置づけ人々に接していければ、それが新たな信頼と関係性につながるように思う。同じ「極東」を共有する隣人を、誰も無視することはできないのだ。

サハリン航空2

サハリン航空での新千歳への帰路は、搭乗手続きも出国手続きも効率的で、もちろん定刻の出発だ。ターミナルビルの国際線エリアに到着した際は、その狭さから多少の混乱は覚悟していただけに、そのスムースさに少し拍子抜けの感もある。そして今日もまた、多くのロシア人が北海道あるいはその先の日本各地を目指して出発する。ビジネスマンに加えて、子どもを連れた家族連れやカップルもいる。皆、表情が明るく楽しそうだ。機内の窓際のシートに座り、ユジノサハリンスクでの刺激的な数日間を反芻しつつ、窓から広大な流氷原を見下ろしていると、機体はすぐに雪雲の中に入る。はっと気づくと、うかつにもまたうたた寝してしまったようで、機体はもう新千歳への降下を始めている。そして着陸。

気がつくとこうして新千歳空港のターミナルビルにいる。日本の携帯電話が普通に通じて、メールもどんどん着信する。周囲はLEDの光に溢れ、コンビニには信じられないくらい色鮮やかな商品が並ぶ。わずか1時間少し前まで日本語も英語も通じないロシアの街にいたとは信じられない光景だ。やはりサハリン航空は「どこでもドア」である。

ユジノサハリンスク10

注記*戦後処理の歴史から「旧・南樺太(サハリン島の北緯50度以南)は現在、いずれの国にも帰属せず、ロシアが実効支配している状態」という考えがありますが、本文においてはユジノサハリンスクを含むサハリン島全体が実質的なロシア領であることを前提にした記述を行なっています。

ユジノサハリンスク7

メーンストリートの「コムニスチーチェスキー通り」を東に移動し「郷土博物館」に向かう。ユジノサハリンスクの中でも最も「日本統治時代」を感じられる建物だ。日本の城郭を模した屋根のラインに特徴のある重厚な日本建築は、当時「樺太庁博物館」だった建物だ。外観は日本らしい設計なのだが現在の日本では見ることのないスタイルで、タイムスリップ感と希少感がある。正門の扉には「菊の御紋(菊花紋章)」が彫られているほか、内部の構造や木を多用したインテリアからも当時の最高レベルの日本建築のデザインと技術を垣間見ることができる。博物館は、サハリンの古代から現在までの歴史を、史料や写真・マルチメディアコンテツの展示を通して学ぶことができる内容で、ソ連時代には封印されていたという日本統治時代の品々もケースの中に並ぶ。当時の北緯50度ラインに設置された日本とロシアの「国境」の標石をはじめ、「豊原」の街や開拓者の暮らしを伝える写真や実際の日用品などの数々がとても印象的だ。まるで時が止まったかのような風合いの展示物を見つめ、先人たちの開拓地での活躍と苦労を偲ぶと同時に、その後の運命を慮る。ソ連崩壊後のサハリン州がこの展示を公開することを決め、そのスペースがかなり広く取られていることからは、日本とサハリンの見えないつながり、そしてサハリン人の日本人に対する特別な感情の一部が伝わってくるようにも感じる。

ユジノサハリンスク8

ユジノサハリンスク9

郷土博物館の入館料は70ルーブル(約210円)。カメラ撮影には別途100ルーブル(約300円)、ビデオ撮影には150ルーブル(約450円)が必要だ。館内で撮影していると、時折、学芸員兼警備員と思われるおばさんが「撮影は有料だよ。代金、払ってる?」とちょっと厳しい表情でロシア語で聞いてくる。「入り口で払ったよ」とレシートを見せると、「あら、なら大丈夫だよ」と笑顔になる。このやりとりが延々と繰り返されるところがなんとも面倒でもあり、どこか楽しくもある。ロシア人はこういう「手続き」みたいなものが好きなのだろうか。

ユジノサハリンスク市内にはこの郷土博物館のほか、旧拓殖銀行豊原支店がサハリン州美術館として、旧豊原市立病院が軍病院として、旧豊原市公園がガガーリン公園として、それぞれほぼ当時のまま現在も使用されている。ホムトヴォ空港もまた、そのルーツは日本統治時代の「大沢飛行場」に遡るが、現在、その痕跡はほぼない。

一般的に日本で「ロシア」と聞いて、無条件にポジティブなイメージだけを持つ人は多くないかもしれない。ロシアが生んだ偉大な芸術や文化、そして大自然などが賞賛に値するのは当然だが、第二次世界大戦末期と戦後の日本とソ連関係や、長く続いた政治・経済の腐敗と混乱などから、どうにも正面切って「友人」だと言い切れない、というのが多くの人の率直な気分なのではないだろうか。しかし、その背景には長らく互いに相手のことを知らず、また知る機会がなかったことも理由としてあるはずだ。今回、互いの距離が、稚内からサハリン島までわずか42キロ、ジェット機でも1時間ちょっとの距離であることを体験し、ロシアが日本の「隣国」であることを改めて実感した。

国レベルでは北方領土問題など、日本とロシアの間で解決すべき問題は多くある。そしてその解決へのプロセスには時間がかかるかもしれない。それでも、ロシアが日本の「隣国」で、サハリンの人たちが「隣人」である事実は変わらない。むしろ日本の多くの人々がそんな隣人意識を持っていないことが課題の一つかもしれない。活動のエリアは経済交流でも観光市場の開発でも、留学生の交換でも構わないが、「サハリンはその半分がかつて日本が統治した南樺太」という認識をさらに広げ、新しい日本の隣国として位置づけ人々に接していければ、それが新たな信頼と関係性につながるように思う。同じ「極東」を共有する隣人を、誰も無視することはできないのだ。

サハリン航空2

サハリン航空での新千歳への帰路は、搭乗手続きも出国手続きも効率的で、もちろん定刻の出発だ。ターミナルビルの国際線エリアに到着した際は、その狭さから多少の混乱は覚悟していただけに、そのスムースさに少し拍子抜けの感もある。そして今日もまた、多くのロシア人が北海道あるいはその先の日本各地を目指して出発する。ビジネスマンに加えて、子どもを連れた家族連れやカップルもいる。皆、表情が明るく楽しそうだ。機内の窓際のシートに座り、ユジノサハリンスクでの刺激的な数日間を反芻しつつ、窓から広大な流氷原を見下ろしていると、機体はすぐに雪雲の中に入る。はっと気づくと、うかつにもまたうたた寝してしまったようで、機体はもう新千歳への降下を始めている。そして着陸。

気がつくとこうして新千歳空港のターミナルビルにいる。日本の携帯電話が普通に通じて、メールもどんどん着信する。周囲はLEDの光に溢れ、コンビニには信じられないくらい色鮮やかな商品が並ぶ。わずか1時間少し前まで日本語も英語も通じないロシアの街にいたとは信じられない光景だ。やはりサハリン航空は「どこでもドア」である。

ユジノサハリンスク10

注記*戦後処理の歴史から「旧・南樺太(サハリン島の北緯50度以南)は現在、いずれの国にも帰属せず、ロシアが実効支配している状態」という考えがありますが、本文においてはユジノサハリンスクを含むサハリン島全体が実質的なロシア領であることを前提にした記述を行なっています。