ビルバオからバスク地方を東に進む。移動にはバスや鉄道が便利だ。チケットの購入などでは英語はあまり通じないが、交通サービス自体は良く整備されている。向かう先はビルバオから約100キロ離れた海岸の街、サンセバセティアン。バスク語でドノスティアである。ここはスペイン王族の避暑地でもあったという、海風が心地よい風光明媚なリゾート地なのだが、誰もが楽しめるようバルや格安の宿「ペンション」が充実している。それでもリゾート地にありがちな旅行者をからかったり、トラブルを引き起こすような(つまり野暮な)雰囲気がほとんど感じられないのが印象的だ。ここはどこまでも大人の落ち着きと安心感と美食に満ちているのである。
投宿先のペンションの若い女性に話を聞く。バスク地方のスペインからの独立については「今も独立の機運はあるけど、過激な運動はもうないし、これからはいろんなことが選挙で決まっていく。独立を主張する友人も多いけど、私は両親がそれぞれスペイン人とバスク人のいわゆる『ハーフ』。それもあって独立するよりスペインのままでいたほうがいいと思う」という。バスクの言葉についても尋ねると、「バスク語で『バスク語』は『エウスカル』。スペイン語とは文法も発音も全く違うから、自分はバイリンガル」と言い切る。そして「そうそう、日本語ってエウスカルに発音が似てるの。日本人が話しているのがエウスカルに聞こえることがある」とも話し、彼女の名前「イチア(Itziar)」が日本人の名前のようだと言われたことがあると、なんだか嬉しそうだ。
バスクの人が話す言葉は言語学的にはルーツが解明されていないらくしく、エウスカルは青銅器時代に小アジア(トルコの東一帯)から移動してきた人たちの言葉が起源だという説もあるという。多文化や多言語を受け入れる素地には、民族的な理由があるかもしれないということか。しかしそんな彼らが、スペインという大きな国の中でまた多様なヨーロッパの中でバスク人として自身のアイデンティティを保ちつづけるとは容易ではないはずだ。ましてやそのアイデンティティが、歴史や明確なルーツの上に確立されたものではなければなおさら。それは今現在彼ら自身が日々大切にし、また次の世代に伝承している形のないもの、まさに日々の暮らしそのものにリアルタイムで息づくものなのだろう。旅のルートは遡るが、バスクの歴史と文化についてはビルバオ市内のバスク博物館がお勧めだ。そこでは、一般に知られているスペインとはまったく別の、穏やかで豊かな人々の昔と今の暮らしぶりを垣間見ることができる。
足をさらに東に進め、鉄道でフランス側のバスク地方の入り口「アンダイエ」の街に移動する。スペイン側からの路線の終点がフランス領内といういかにもヨーロッパ的な鉄道である。出入国管理はない。アンダイエからはフランス国鉄に約40分乗り、バイヨンヌに向かった。フランス南西端のピレネー=アトランティック県の郡庁所在地で、フランス側のバスク地方の中心地だ。巨大な尖塔を持つカテドラルを中心にした古都で、街のそこそこにはバスク語の表示がある。フランス領内であるから当然だがスペイン語は突然に通じなくなり、辺りはすっかりフランス語圏になる。レストランなどの料理は同じバスク料理でもフランス料理との融合だったり、フランス料理風の味付けだったりすることが興味深い。そういえばドノスティアのペンションのイチアが「フランス側のバスク地方も楽しいわよ。習慣や料理や言葉はすっかりフランスだけどね。私たちはエスカウル(バスク語)が通じるから問題ないけど」と話していたことを思い出す。たとえバスク語は話せなくても、ここバスクではゆるやかに重なり合う2つの文化圏を1日のうちに楽しむという、なんとも贅沢な旅ができるのである。
帰路はボルドーから空路ロンドンに戻る予定だ。バスク西端のビルバオ空港に入り、バスク地方を陸路縦断し、最後に東端のボルドー国際空港から抜けるのである。ボルドーは厳密にはバスク地方ではないが、街のあちこちのレストランなどに「バスク風」のメニューがある。ここはバスクの北東の「隣接地」で、実際、この街を拠点にバスク地方を巡る旅程を組む人も多いという。またボルドーは、フランス南西端地域からバスク地方を通過してスペイン北西端に続く巡礼の道「カミノ・デ・コンテスポーラ」の起点の一つでもある。そう言えばビルバオからの道中、巡礼のシンボルであるホタテ貝の殻を身に付けた多くの巡礼者とすれ違ったことを思い出す。現在の文化圏や国境がある以前から、この地には多くの人が往来し、人々の暮らしが現代に至るまで面々と繋がっていることを改めて思い知る。
バスク地方、あるいはエウスカディには熱すぎず、まぶしすぎないスペインとフランスがあるように思う。どこまでもシンプルで親切な人々の眼差しと笑顔が、道中いつも、どこかの小国で穏やかに暮らす人々を思い起こさせたことが忘れられない。それはまるでバスクの人たちが独自文化と自身のアイデンティティを胸に、それぞれの心の中ですでに独立を果たしているようにも見えた。
ビルバオからバスク地方を東に進む。移動にはバスや鉄道が便利だ。チケットの購入などでは英語はあまり通じないが、交通サービス自体は良く整備されている。向かう先はビルバオから約100キロ離れた海岸の街、サンセバセティアン。バスク語でドノスティアである。ここはスペイン王族の避暑地でもあったという、海風が心地よい風光明媚なリゾート地なのだが、誰もが楽しめるようバルや格安の宿「ペンション」が充実している。それでもリゾート地にありがちな旅行者をからかったり、トラブルを引き起こすような(つまり野暮な)雰囲気がほとんど感じられないのが印象的だ。ここはどこまでも大人の落ち着きと安心感と美食に満ちているのである。
投宿先のペンションの若い女性に話を聞く。バスク地方のスペインからの独立については「今も独立の機運はあるけど、過激な運動はもうないし、これからはいろんなことが選挙で決まっていく。独立を主張する友人も多いけど、私は両親がそれぞれスペイン人とバスク人のいわゆる『ハーフ』。それもあって独立するよりスペインのままでいたほうがいいと思う」という。バスクの言葉についても尋ねると、「バスク語で『バスク語』は『エウスカル』。スペイン語とは文法も発音も全く違うから、自分はバイリンガル」と言い切る。そして「そうそう、日本語ってエウスカルに発音が似てるの。日本人が話しているのがエウスカルに聞こえることがある」とも話し、彼女の名前「イチア(Itziar)」が日本人の名前のようだと言われたことがあると、なんだか嬉しそうだ。
バスクの人が話す言葉は言語学的にはルーツが解明されていないらくしく、エウスカルは青銅器時代に小アジア(トルコの東一帯)から移動してきた人たちの言葉が起源だという説もあるという。多文化や多言語を受け入れる素地には、民族的な理由があるかもしれないということか。しかしそんな彼らが、スペインという大きな国の中でまた多様なヨーロッパの中でバスク人として自身のアイデンティティを保ちつづけるとは容易ではないはずだ。ましてやそのアイデンティティが、歴史や明確なルーツの上に確立されたものではなければなおさら。それは今現在彼ら自身が日々大切にし、また次の世代に伝承している形のないもの、まさに日々の暮らしそのものにリアルタイムで息づくものなのだろう。旅のルートは遡るが、バスクの歴史と文化についてはビルバオ市内のバスク博物館がお勧めだ。そこでは、一般に知られているスペインとはまったく別の、穏やかで豊かな人々の昔と今の暮らしぶりを垣間見ることができる。
足をさらに東に進め、鉄道でフランス側のバスク地方の入り口「アンダイエ」の街に移動する。スペイン側からの路線の終点がフランス領内といういかにもヨーロッパ的な鉄道である。出入国管理はない。アンダイエからはフランス国鉄に約40分乗り、バイヨンヌに向かった。フランス南西端のピレネー=アトランティック県の郡庁所在地で、フランス側のバスク地方の中心地だ。巨大な尖塔を持つカテドラルを中心にした古都で、街のそこそこにはバスク語の表示がある。フランス領内であるから当然だがスペイン語は突然に通じなくなり、辺りはすっかりフランス語圏になる。レストランなどの料理は同じバスク料理でもフランス料理との融合だったり、フランス料理風の味付けだったりすることが興味深い。そういえばドノスティアのペンションのイチアが「フランス側のバスク地方も楽しいわよ。習慣や料理や言葉はすっかりフランスだけどね。私たちはエスカウル(バスク語)が通じるから問題ないけど」と話していたことを思い出す。たとえバスク語は話せなくても、ここバスクではゆるやかに重なり合う2つの文化圏を1日のうちに楽しむという、なんとも贅沢な旅ができるのである。
帰路はボルドーから空路ロンドンに戻る予定だ。バスク西端のビルバオ空港に入り、バスク地方を陸路縦断し、最後に東端のボルドー国際空港から抜けるのである。ボルドーは厳密にはバスク地方ではないが、街のあちこちのレストランなどに「バスク風」のメニューがある。ここはバスクの北東の「隣接地」で、実際、この街を拠点にバスク地方を巡る旅程を組む人も多いという。またボルドーは、フランス南西端地域からバスク地方を通過してスペイン北西端に続く巡礼の道「カミノ・デ・コンテスポーラ」の起点の一つでもある。そう言えばビルバオからの道中、巡礼のシンボルであるホタテ貝の殻を身に付けた多くの巡礼者とすれ違ったことを思い出す。現在の文化圏や国境がある以前から、この地には多くの人が往来し、人々の暮らしが現代に至るまで面々と繋がっていることを改めて思い知る。
バスク地方、あるいはエウスカディには熱すぎず、まぶしすぎないスペインとフランスがあるように思う。どこまでもシンプルで親切な人々の眼差しと笑顔が、道中いつも、どこかの小国で穏やかに暮らす人々を思い起こさせたことが忘れられない。それはまるでバスクの人たちが独自文化と自身のアイデンティティを胸に、それぞれの心の中ですでに独立を果たしているようにも見えた。